@article{oai:bunkyo.repo.nii.ac.jp:00003274, author = {酒井, 信}, journal = {湘南フォーラム:文教大学湘南総合研究所紀要, Shonan Forum : Journal of the Shonan Research Institute Bunkyo University}, month = {2011-02-01, 2011-11-05}, note = {ゲーム的と考えられるリアリティ(現実感)は、家庭用ゲーム機器が普及した後に発生したものではない。それは近代社会におけるリアリティの変化を捉える概念として定着してきたものである。そもそもゲームという言葉の原義は、「競争的な遊戯」であるが、ここにいち早く近代社会一般を特徴付ける意味を与えたのは、哲学と経済学である。  具体的に言えば、第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期に、哲学ではL. ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム(language-game)」という概念を示し、経済学ではJ. V. ノイマンが「ゲーム理論(game theory)」を提示した。双方の概念と理論は、言語学、経済学の学問的区分を超えて強い影響力を有してきたといえる。例えばJ. V. ノイマンとO. モルゲンシュテインは1944年の『ゲーム理論と経済行動』で、自己の効用を最大化するために、合理的な判断を試みる複数の主体の行動を、協力、交渉、ジレンマなどに分類し「ゲーム理論」として提示している1。この理論は、限定的な条件下の経済活動を予測する理論としてだけではなく、人間の行動予測に役立つ理論として、今日ではデータ解析の技術と結び付き、他の学問分野でも一般化している。  ただ本稿で私は、ノイマン等の言う「ゲーム理論」は、ウィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」の概念の内に包摂されるものであると考える。なぜなら「ゲーム的」なリアリティは、人間の行動以前の問題として、人間の言語活動に関わる問題であると考えるからである。正確に言えば、「ゲーム理論」が示す協力、交渉、ジレンマなどの行動分類は、言語を軸とした了解体系(M. ハイデガー)の上でなされるものであり、ウィトゲンシュタインが言うところの構文法の外側にある言語活動の多様性、恣意性に関わる問題であると考える。このため私は現代の日本においてゲーム的と考えられるリアリティ(現実感)の問題は、テクノロジーによって変容した人間の存在を巡る問題であり、(無意識レベルの)言語を軸とした価値の了解体系を巡る問題であるという立場を採る。したがって本稿で論じるのは、家庭用ゲームによって特徴づけられるサブカルチャーや、現代の人間のゲーム的な行動様式ではなく、「言語ゲーム」という概念を通して迫り得る近代的な言語活動ないしは「言説(M.フーコー)」のあり方である。「ゲームと近代」とタイトルを付したのはこのためである。}, pages = {17--26}, title = {ゲームと近代(特集1 ゲームの時代)}, volume = {15}, year = {} }