@article{oai:bunkyo.repo.nii.ac.jp:00007153, author = {マイケル, チャプレン and 羽田, 美也子}, issue = {1}, journal = {文学部紀要, Bulletin of The Faculty of Language and Literature}, month = {2016-09-01, 2018-05-26}, note = {フィルム・ノワールの巨匠と呼ばれるドイツ人映画監督フリッツ・ラング(Fritz Lang, 1890-1976)の最初期の作品に、『ハラキリ』(1919)がある。彼の初期の代表作である『ドクトル・マブゼ』(1922)、『メトロポリス』(1927)、『M』(1931)のような作品とは明らかに一線を画しているロマンチシズムの極致のような『ハラキリ』は、内容的にはまさにドイツ版「蝶々夫人」である。 「蝶々夫人」は、原作はアメリカ人ジョン・ルーサー・ロングによる短編小説で、初出は1898年『センチュリー・マガジン』誌1月号である。これが大評判となってアメリカ人劇作家デイビッド・ベラスコが戯曲化、この舞台をイギリスで観て感激したイタリア人プッチーニが1904年にオペラ化したものが、全世界を席巻したという経緯がある。19世紀後半から20世紀初頭にかけてのジャポニスム全盛期の象徴的作品と言っても過言ではない。この作品を「ハラキリ」というタイトルで、1919年というジャポニスムも下火になりつつある時期に製作したフリッツ・ラングの意図は、どこにあったのであろう。また、以後時代を風刺する作品を撮り続け、社会や人間に対する不信感を抱き続けたラングにとって、この作品はどういう意味を持っていたのであろうか。 彼の描く悪役には通底するモチーフがあり、それは最初期に制作された『ハラキリ』にも見て取れる。一見その後の作品とは指向が全く違っているかのようにみえる『ハラキリ』であるが、他作品と同様に人間への不信感というものが独特の味わいで描かれている。本稿では、これらの点につき、表象文化(映像)の観点からの分析と、ジャポニスムを軸とした検証を各自が担当し、可能な限り多角的視点で論じることを試みた。}, pages = {59--73}, title = {フリッツ・ラングと『ハラキリ』 : ドイツにおける「蝶々夫人」の運命}, volume = {30}, year = {} }